「宮本武蔵(一)」(吉川英治;講談社;1989)

「うぬっ、どうするか、みていろっ―」

武蔵は、満身の力で、自分の身を縛めている老杉の梢をゆさゆさ動かしていう。

バラバラと、杉の皮や、杉の葉が、沢庵の頭へこぼれて来る。その襟元を払いながら沢庵は仰向いて―

「そうだ、そうだ。それくらい怒ってみなければほんとの生命力も、人間の味も、出ては来ぬ。近頃の人間は、怒らぬことをもって知識人であるとしたり、人格の奥行きと見せかけていたりしているが、そんな老成ぶった振舞を、若い奴らが真似るに至っては言語道断じゃ、若い者は、怒らにゃいかん。もッと怒れ、もッと怒れ」

先日「最後のマンガ展」を見に行ったが、その「バガボンド」の原作である、吉川英治の「宮本武蔵」を読んでみたくなった。

経緯

というのも、「バガボンド」のテーマと思われる、人間の弱さと強さというものについて、自分はもっと多くの見解を知りたいと思うし、読解力のなさから「バガボンド」だけでは消化不良のところもあるので、原作を読んで多角的に検証したい、と思ったから。

また、あれだけ魅力的な作品であるから、それを作りだすに至った原作を、単に読んでみたいという感情もあった。

吉川英治「宮本武蔵」文庫版

というわけで、講談社の「吉川英治歴史時代文庫」で文庫化されていたもののうち、書店で2巻までを買い求め、とりあえず1巻を読み終えたので、その感想を記しておく。

バガボンドと違うところと同じところ

読んでみると、やはりバガボンドと違うところが気になるというか、バガボンドの話を下書きにして読むので、あ、同じだと思ったり、ここは違うなと思ったり、こいつがこんなキャラかよ?と思ったりする。

それにしても基本として登場人物は名前も含めて同一なので、読みながらバガボンドで描かれた顔が浮かんでくるのが楽しい。ナマズひげ(どじょうだっけ?)の某侍とか、「河っ童そのまま」という某少年とか。容貌の描写が明らかに違う人もいるけど。

まだ全8巻のうち1巻しか読んでいないため、結論を出すには早すぎるが、以下のような違いがあった。

武蔵の生育環境の違い

武蔵の生育環境について、井上雄彦「バガボンド」では、明確には描かれていない。なんだか山で育ったとかそんなことは言っていたけど。それに対して吉川英治「宮本武蔵」では、生家の環境が記述され、姉が生育環境とのつながりとして存在する。

「バガボンド」は、現代の青年向けの漫画雑誌である講談社の「モーニング」で連載されているため、青年が感情移入しやすいよう、あえて武蔵のバックグラウンドをぼかしたのかもしれない。この点、RPGゲームで主人公が天涯孤独だったりするのと同じことのように思える。

吉川英治「宮本武蔵」では、家長制度の元で描かれているため、読者が登場人物の人となりを理解するうえで、どういう出自かということは欠かせない属性だったのではないだろうか。

登場人物の違い

他の違いとして、武蔵と、彼以外の登場人物との関係があるかもしれない。

「バガボンド」では、武蔵以外にも武術に優れた登場人物が多く現れる。その描写が「バガボンド」の魅力にもつながっているように思う。

一方、吉川英治「宮本武蔵」では、1巻だけで判断してしまうと、既に二人、「バガボンド」では強くて魅力的だったあの人とあの人が、脇役扱いになっている。また、武蔵は初期のある時点以降は、知性を備えた人格的に完成した人のように描かれている。

これは、「バガボンド」が、少年?青年漫画にありがちな、強い敵を倒して主人公が成長していく、という構図をとったようにも思えるし、価値観が多様な読者をひきつけるため、脇役だった登場人物の記述を膨らませて、さまざまなキャラクターの武術家を登場させる必要があったのではないかとも思える。

なお、原作では脇役になっているうちの一人は、性格付けと容貌が全く異なっていて、活躍を期待して読むとがっかりする。しかし、逆に、それほどの魅力を持つ人物として「バガボンド」で確立させたのは、井上雄彦の構想力と筆力といえると思う。

テーマの違い

前の段落で、武蔵が早いうちから人格的と書いたが、これはテーマの違いにも挙げられるかもしれない。

「バガボンド」では、強さを追い求める武蔵が決闘を繰り返すうちに、相手への憐れみや、より強い人間の存在、あるいは怪我を負ったりということで、ゴールを徐々に軌道修正している。真に強い人間とは何かということを武蔵がしばしば悩み、結果、先日の「最後のマンガ展」に至るわけだけど、そのプロセスも、魅力の一つだと思う。

しかし、吉川英治「宮本武蔵」では、少なくとも1巻を読んだ限りでは、そのような独白があっさりしすぎている。しかも結構知的な言葉遣いを吐く。そのため、武蔵が何を目指しているのか、よくわからない

吉川英治はその執筆についてによる「旧序」で、

―それと、あまりにも繊細に小智にそして無気力に堕している近代人的なものへ、私たち祖先が過去には持っていたところの強靭なる精神や夢や真摯な人生追求をも、折には、甦らせてみたいという望みも寄せた。とかく、前のめりに行き過ぎやすい社会進歩の習性にたいする反省の文学としても、意義があるのではあるまいか、などとも思った。それらが、この作品にかけた希いであった。

と言っている。

これがテーマであり、武蔵の目指しているところであるのだろうが、正直なところ具体的にイメージできない。自分が精神的に未熟なせいかもしれない。あるいは昭和10年代の「日本人論」につながるものかもしれない。

しかし、そうなると、原作でも相変わらず自堕落な又八は、今後どう描かれるのだろう?と気になった。

参考文献

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