概要
- フェースブックを創業したマーク・ザッカーバーグが主人公ということで、フェースブックの物語かと思ったら違っていた。
- タイトルにあるとおり、まさにザッカーバーグ自身のソーシャルネットワークの物語だった。
生まれたばかりの子供にとって、世界は異質なものに溢れています。もともと知り得ていたものなど何もないので、あるがままの世界が発する声にただ耳を澄ますしかありません。目の前に覆いかぶさってくる光の洪水に身をまかせるしかないのです。そういった意味で、子供たちは究極の旅人であり冒険者だといえるでしょう。
「うぬっ、どうするか、みていろっ―」
武蔵は、満身の力で、自分の身を縛めている老杉の梢をゆさゆさ動かしていう。
バラバラと、杉の皮や、杉の葉が、沢庵の頭へこぼれて来る。その襟元を払いながら沢庵は仰向いて―
「そうだ、そうだ。それくらい怒ってみなければほんとの生命力も、人間の味も、出ては来ぬ。近頃の人間は、怒らぬことをもって知識人であるとしたり、人格の奥行きと見せかけていたりしているが、そんな老成ぶった振舞を、若い奴らが真似るに至っては言語道断じゃ、若い者は、怒らにゃいかん。もッと怒れ、もッと怒れ」
先日「最後のマンガ展」を見に行ったが、その「バガボンド」の原作である、吉川英治の「宮本武蔵」を読んでみたくなった。
井上雄彦のマンガ「バガボンド」の世界を取り上げた「最後のマンガ展」に行ってきた。
今年12月に休館の決まったサントリーミュージアム[天保山]にて、2010年3月14日(月)まで開催。
夜明けまえ、彼は目を覚ました。すると暗闇のなか、じつは妻は起きていて、一晩じゅう彼を睨みつけていたのではないかという思いに囚われた。ほんの数分のあいだにもその思いはだんだんと強くなって、抜け出すことが困難なほどに膨れ上がり、仰向けに上を向いたまま彼の首は固まって動かなくなってしまった。
ある男の、青年期の終わりに結婚してから、壮年期の半ばに至るまでの人生のお話。
男の人生は、家族とか妻とか子供とかに密接に絡まっていて、男もそれは自認して依存しているのに、一方では不思議なぐらいそれらの存在が希薄な感じに思える。
その代わり、一見どうでもいいような些細な出来事はやけに記憶の中の位置を占めていて、壮年に至った現在考えてみると、そういうものがつなぎ合わさって今の自分につながっているというという感覚。このあたり、主人公の男が回想をはじめるくらいの年齢にいる自分にとっても共有できるところがあって、リアルだ。
自分の人生って何? 10代とか20代ほど楽観的でもなく、4、50代くらい以降の確固たるものの見方も定まっていない微妙なお年頃特有の悩みというものがある。悩みつつ、日々をこなしているうちに、いつの間にか年をとっていくものだけど。 そのあたり、結婚して、子供ができるとまた思うところがあるのだろう。
おなじ号の文芸春秋に載っていたインタビューで、人生における経過した時間の重みに云々話されているのだけど、時間の経過だけでなく、話の中では家を建てることが象徴的な意味も含めて結構重要な位置を占めてるように思う。
結局、この男は、妻とこれから死に至るまでのそう長くない時間を過ごすことになる終の住処が目の前にあることを知るのだけど、それはやっぱり幸せなことなのだ。娘がいつの間にか留学に行ったことも知らなかったり、この十何年かの家庭の思い出がほとんどなくても。男の人生ってそういうものなの・・・かな!? ちょっと後ろ向きな気もするけど。
(文藝春秋2009年9月号、第141回芥川賞受賞)
最近お気に入りのNHKオンデマンドの「見逃し番組」で見た番組。
海外貿易の世界では、「国際標準」と呼ばれる製品の規格の枠組みがあるそうだ。1994年?に欧州主導?で取り入れられたもので、WTOの国々はこの規格に沿った製品でないと輸出できないとのこと。
何が問題かというと、日本の製品は独自規格のものが多く、国際標準に適合していないことが輸出の減少の原因になっていること、およびその原因として国際標準の策定プロセスの中で、日本に戦略が欠けており、規格の主導権争いに勝てていないこと。
番組内で特に取り上げられていたのは高電圧(UHV)による送電技術で、国際標準の規格では1050Kボルトと1100Kボルトが実現化前の「名ばかり」規格として存在していたところ、日本は1100Kボルトの技術を開発したため、1100Kボルトを新たに国際標準に加えないと輸出ができない。
1100kボルトの技術を1050kボルトにダウンコンバート?して使えないのか、とか、規格が決まった時点でその電圧に変更して開発を継続していたらよかったのでは、とか考えたけど、おそらく莫大なコストをかけて長期間(30年とのこと)開発してきたので、急にはそういった進路変更ができないのだろうなあ。
ゆえに、特に海外に進出を図っていきたい技術については、国際標準の動向に注視する必要があるし、場合によっては規格の決定において政治顔負けの多数派工作が必要になる、というのが番組の肝であった。
最後にちょっと疑問だったのが、標準規格で特許ビジネスができるのか?ということ。そのような話が番組内でちょっとふれられていた。携帯電話なんかでも同じような話を聞いたことがある。
ふつう、規格化された技術はオープンなのだから、規格化された技術そのものに特許を与えるということは考えられない。規格を実現化する方法が特許の対象となっても、別の方法によって同じ規格の製品を作ることはできるのではなかろうか。その点でデファクトスタンダードとは違うと思うのだけど・・・。