生まれたばかりの子供にとって、世界は異質なものに溢れています。もともと知り得ていたものなど何もないので、あるがままの世界が発する声にただ耳を澄ますしかありません。目の前に覆いかぶさってくる光の洪水に身をまかせるしかないのです。そういった意味で、子供たちは究極の旅人であり冒険者だといえるでしょう。
概要
石川直樹(HP)という、友達曰く冒険家で写真家の人が、各地への冒険を振り返ったような本(amazon.co.jp)。
高校のときに社会の先生の話を聞いてインドにいったのを皮切りに、アラスカのカヌーによる川下り、北極から南極までアメリカ大陸を縦断した POLE TO POLE というプロジェクト、チョモランマ登頂、気球による太平洋横断、などなど。
最終章で著者は、冒険家と呼ばれることに違和感を持つといい、冒険とは何か、なぜ自分が結果的に冒険と呼ばれることをこれまでしてきたか、について述べている。
旅に出るということは、未知の世界に足を踏み入れることであり、未知の世界と生身の自分が向き合うことに意義があるとのこと。そう考えると、単に秘境と呼ばれるところに足を伸ばすことだけでなく、我々の日常の中にも冒険というものはあるということになる。
そして、彼がいま冒険の目的地として興味を持っているのは、ひとつは先駆者がまったくいない宇宙、そして現実の世界には存在しない「もうひとつの世界」ということらしい。
後者の例としては、オーストラリアのある壁画群は、マオリの精神世界を表しており、それらによって現実が精霊の世界とつながっていることを挙げている。彼の冒険は、目的地が物理的に設定されていないといけないという制約から自由になろうとしているが、それは我々が考える冒険とは大きく異なっている。
そういった領域は、これまで文化人類学とかの名前が付けられていたと思うけど、未知の世界を欲する冒険家の立場からはどういったとらえ方がされるのか、興味があるところではある。
考えたこと1:奈良美智
ひとつ思い出したのは、奈良美智の「孤独が僕を創作に向かわせる」みたいな言葉。
奈良美智のことはあんまり興味がないのだけど、この言葉は、何年か前に好きな友人に誘われて、奈良美智の「A to Z」展とかなんとかいう展示が当時あって、その制作記録映画のような映画を見に行ったときに、彼の言葉として強調されていて頭に残っていたもの。
当時は、彼自身の社会的孤立感と、その逆境を力にして創作活動をしていたという意味かなと、単純に思っていた。映画の中では、「A to Z」展の中でたくさんのスタッフに囲まれて楽しそうにしている奈良の姿が描かれていて、また、彼の描く少女の表情が心境の変化か何かで変わったという話があって、ああ、そうなんだ。よかったね孤独じゃなくなったね、みたいな。
でも今考えてみると、そんな単純な意味ではなく、彼の創作に対して持っている意識を表したものであったのかも。創作とは冒険であり、創作に向かうときは何も伴わず、我が身一つで未知の世界に進んでいって、まだ見ぬ目的地をめざすものだと。そんな心境をあの言葉にしたのではなかろうか。
考えたこと2:日常生活の冒険
本書の表紙の背景には、シダっぽい白い葉が、地面に一枚だけ落ちている写真が使われている。
解説によると、マオリが森を歩くときに、目印として白い葉を落とすのだという。サバイバル技術のひとつのように思うけど、マオリにとってみればそれが日常なんだろう。逆にマオリにからみると、我々がオフィスでコンピューターを使っている技術は、そういう環境下でのサバイバル技術のように思うのかもしれない。
本書の中で、著者は冒険のメリットがどうだとか、現代人は旅をしないからなんだとかという主張はしていない。彼が冒険をするのは、単純に未知の世界にいってみたい、といったところで、これは冒険家の冒険家たるゆえんだなあと思う。
しかし、物質社会にどっぷり浸かった社会の歯車の身からすると、日常生活に冒険を組み込んで、それによるメリットを享受したいと思う。
それはいったい何でしょう。工夫?
考えたこと3:教師
著者が最初にインドを訪れたのは、実際にインドに行ったことのある高校の先生に後押しされたようだ。
その先生の行動は多かれ少なかれ彼の人生を変えたことだろう。そして結果的には彼の興味を引き出し、生きる根本を形づくった。そういった教師と生徒の関わりはすばらしいことだ。
冒頭に引用したように、著者は子供を究極の旅人ととらえている。自分が子供を育てることになるのであれば、その究極の冒険のよき理解者、助言者、先導者でありたいと思う。