概要
- Windows用のコンポーネント。アプリケーションとDBなどのデータソースとの間でデータ出入力を行うために使われる。
- OLE DB、ODBC、ADO、RDS を使うための DLL と関連リソースから構成される。
- Windows Vista より前は、MDAC (Microsoft Data Access Components)という名前だった。
少し前に、Google翻訳で、リアルタイム翻訳ができるようになったというニュース(ITmedia)があった。
まあ、それくらいはできるでしょう、くらいに思っていたのだけど、同じ翻訳関連の技術で、Youtubeの英語の動画に日本語の字幕を付ける機能(Auto-caps)を実装していたのには感心した。
ものすごい便利。
この「Auto-caps」は、Youtubeの動画に、自動音声認識された英語の字幕を付けることができるというもので、オプションとして翻訳もできる。聴覚障害者に対するアクセシビリティ、非英語圏者の利用性、検索品質の向上を目的としたものらしい。
こんにち、数多くの動画共有・配信サービスがある中、こういう形で差別化を図っていくのは、ものすごくGoogleらしいと思う。
Googleらしいというのは、技術の方向性が、まさに社是(?)の「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにする」ことに向かっているということ。
例えば、マイクロソフトやSunのサイトで公開されている開発者向けの英語のビデオを見ることがあるわけだけど、とりこぼさずに理解できるはせいぜい30%くらい。つい、独自の配信システムでなくてYoutubeにしてくれたら字幕が出るから助かるのになーと、思ってしまう。
と、なんだかGoogle褒めまくりだけど、実はまだまだ実用レベルには達していない。自動音声認識でもとりこぼしがあるし、日本語翻訳は英語の字幕を読んだほうがわかりやすいほどのレベル。
上の画面の例だと、英語でちゃんと「he’s a」って認識しているのに、なんでそれを翻訳すると「he’sa」という謎のかたまりにしてしまうかなあ。
そんなわけで、現在は一部(大学関連、Google、Youtube等のチャンネル)での限定運用にとどまっていて、今後の技術水準の向上に期待されるところ。
Wiki-OS という ウェブ上で動くOSがあって、かなり動くものになっていて面白かった。
何が面白いって、アプリケーションのタイトルバーにある「edit source」ボタンを押すと、すぐにソースコードがIDEで開いて、修正してコンパイルができるということ。そして、そのデスクトップ環境をウェブ上のユーザーが共有している。
新しいアプリも作れるので、xeyesみたいなのを作ってみた。このWiki-OS自体はSilverlightで作られていて、中で動くアプリケーションは、その中のコンポーネントみたいな位置づけになる模様で、C#とXAMLを使って開発することになる。
ただ、これはどう考えても一般向けではないし、Wikiというからには、レビュー機能など、もっとほかのユーザーとコラボレートできないと寂しい気もする。開発元はフランスのUserwareという会社で、エンタープライズ版もあるようだけど、どうやって商売をしていくのか、心配なところ。
ちなみにWiki-OS上のアプリは、他のページに埋め込めるらしい。
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NHKオンデマンドで見た、「プリズン・ドッグ」という番組が面白かった。
米国のマクラーレン青年更生施設では、「ドッグ・プログラム」と呼ばれる方法で、受刑者の更生を図っているという。
「ドッグ・プログラム」は、捨てられたり虐待されたりした犬を、受刑者たちがトレーニングして、新しい飼い主に引き渡すというもの。
社会的に意義のある仕事というだけでなく、犬との心のふれあいを通して自然な形で思いやりを学んだり(ちょっとクサイね)、新しい飼い主に感謝されることで、心がすれてしまった受刑者たちが人間関係を再構築して更生に役立っている模様。再犯率も低いらしい。
受刑者の一人が、犬も人間も個性があるんだねーと語っていたのが印象に残った。
人間関係の行き詰りなんて、今に始まったことでなくて昔からあることだと思うけど、最近は本当に、他人に無関心でいようと思ったら、徹底的に無関心なままでいることができるようになったと思う。
秋葉原の通り魔事件なんかでもそうだけど、孤独が反社会的行動の一因になったのではないかと思われる事件は多い。
「「丸山眞男」をひっぱたきたい」とかね。いったん他人に対する殻を作られたら、もうちょっとどうにも人間関係が修復できないことが多い。(なお、あの人が殻を作ってると思ったら、案外自分が殻も作っていたというケースも多い)
そうなると少々コミュニケーションをとろうと思っても、押しつけがましいものになって絶対うまくいかない。前科者とかだったら尚更。
ところが「ドッグ・プログラム」では、そこに犬を介在させることで、自然に受刑者を人間関係のなかに受け入れるのに成功しているように思った。
これは一例にしても、刑事政策といっても、厳罰化とか死刑反対とかではなくて、こういう再社会化をどうやって図っていくか、その方法が大事だねえ。家具とか作ったりしているのはたまに見るけど、うーん。ソフトウェア開発を職業訓練で学ばせたりしてるという、美祢社会復帰促進センターとか、うまく機能しているのかなあ。
今週(09-10-22)、Windows 7が発売された。
なんだか僕の周りでは、Windows 7の機能云々よりも、Vistaとの比較で、Vistaがどんなに使えないか、いやそんなことはないんだという話が盛り上がって、その一方でWindows 7を買いますという人は、あんまりいない。
そんなWindows 7の名前の由来について、かなり前にどこかのニュースサイトの記事(海外のニュースサイトの翻訳だったと思う)で、興味深い話を読んだ。
一般的には、7番目のWindowsというのが理由とされている。あと、シンプルというのも、今の時代に合っているのだろう。
Simply put, this is the seventh release of Windows, so therefore “Windows 7″ just makes sense. — Mike Nash
<http://windowsteamblog.com/blogs/windowsvista/archive/2008/10/13/introducing-windows-7.aspx>
肝心の記事のURLが分からなくなって、見直しできないのだけど、その記事の言うところによれば、7という名前にマーケティング上の大きな理由があるのではないかとのこと。
Vistaの大失敗を繰り返すわけにはいかない。でも、多くの人は依然としてXPをはじめとするWindows OSを使っている。そのため、Windowsの次期バージョンでは、このWindowsというブランドを最大限活用するため、固有名から装飾を排して、「7」という単なる数字にしたのだという。
また、書き言葉や話し言葉で考えたとき、Windows Vistaは単に「Vista」と呼ばれてしまうけど、Windows 7だと、「7」とは呼びにくい(英語圏ではなおさら)。そこで、あえてWindowsを付けて読んでもらう名前にすることで、Windowsブランドを意識してもらう意図があるのでは、という話もあった。
まあ、人間でも○○さんの長男とか、そんな紹介のされ方もあるからね。
部屋が片付いていそうだね、と言われることがある。それも、部屋にテーブルとテレビしかないとか、そんなふうにあまり物を持たない人だと思われている節がある。
しかし、実際は逆で、なかなか物が捨てられないのだ。捨てずに物をため続けて、ある時、ついに思い至って一気に処分したりする。
そして処分するときに、その物とともに過ごした時間について改めて考えて、一抹のセンチメンタルな感情に襲われる。この感情は、なかなか他人に(特に女性には全く)理解されない。
今日、10年分の電話だとか、電気だとか、ガスだとか、水道だとか、その他もろもろありとあらゆる請求書の束をシュレッダーで処分した。
僕が一人暮らしを始めて10年あまりになるが、その間の公共料金ほか、毎月届く請求書をすべて僕は保管していた。保管することで、家計簿をグラフ化するとか、電話会社の会社名が変わったりするのを見たり、請求書のデザインの変遷を調べたりだとか、いろいろマニアックな楽しみ方はあると思うのだが、僕の場合は、ただ捨てずに保管していただけだった。
↓マニアックな楽しみ方の例:NTT再編(1999-07-01)前後の請求書
何年か前にこの請求書の束をみて、さすがにもう燃えるごみ(当時。現在住地なら第1・3水曜の古紙回収)には捨てられないなと悟った。捨てられないことはないが、まかり間違って人の目につくところにぶちまけられることになったらちょっと恥ずかしい。
ヤフオクにて2,800円で落札した個人用シュレッダーは、製造元のホームページを見ると2世代前の製品で、かなり大きな音をたてるものだった。
請求書を一枚一枚シュレッダーに差し込んで、ああ当時はツーカーなんて携帯電話の会社があったなあ(昔の携帯電話の請求書の明細は驚くほどシンプルだった)とか、このころはよく支払いが滞って利息を取られていたなあとか、@Freedなんてサービスもあったなあとか考えながら、だいたい3秒に1枚のペースで請求書を3×20ミリの紙片に破壊していった。
そして最後に、大学に入学した年の4月の電話代の請求書(回線使用料や通話料のほかに工事料2,000円が記載されている)を投入口に差し込んで、僕の請求書の束は、においも色も思い出も何もない、そこに10年間のどんな出来事も見いだせない、25リットルのポリ袋いっぱいの紙の破片になった。
さあ、次は服だ!
衆院選の期日前投票のために市役所に行ってきた。
驚いたのが同じように投票に来ていた市民の数で、投票所のある3階にいくと既に50人もの行列ができていた。行列の最後尾は連絡通路を超えて隣の建物まで続いている。
こちらに越してきて最初の選挙は橋本知事の当選した府知事選で、そのときも期日前だったが、投票所は他に市民の姿はなく寂しい思いをしたことを覚えている。注目している市民の数が違うのだろうか。
その市役所3階には、多くの市民と見知りの投票しない人がなぜかいて、新たに行列に並ぶ人たちと頻繁に挨拶を交わしたり、行列の場所取りをしたり、エレベーターホールの前で待機していて高齢の市民の投票が終わったらその人を市役所出口の車までナビしたりしていた。都会の投票所に似つかわしくないようなムラ社会的な光景で、ちょっと珍しく思われた。もしかしてどこかの党の支持者たちの組織的な投票活動なのだろうか。
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その後帰宅すると、珍しく固定電話に着信があって、出ると衆院選の電話調査であった。
回答を了承したところ、質問内容は投票予定の候補者・政党、普段の支持政党、望ましい政権連立のありかた、重視する政策のほか、各候補者について知っているかどうかなど、だいたい10分くらいかかった。
興味深く思ったのが、調査員の女性が最初に「現在20台30台の男性の回答が不足している」などとのたまって、「20代30代の男性ですか」と聞いてきたこと。
大学生のころ、夏休みのアルバイトとして、テレビ視聴率調査で有名な某社のラジオ聴取率調査の手伝いをしたことがあった。その際、性別・年代別の被調査者のサンプル数が、対象となる地域の人口構成に基づいてあらかじめ設定されており、なかなか見つからない性別・年代の人を探し出すのが大変だったと記憶している。
その時は住民基本台帳の内容をもとに、調査員が戸別訪問する方法であったので、「20台の男性」が住んでいるはずの家を訪問する、ということができた。一方、今回の電話調査はRDDとのことなので、出た人間の年代や性別などは知りうる由もないはず。
そのあたり、全く無作為に電話をして目的の属性の人間を探すのであれば、大変な苦労だ。また、仮に予めそれを知った上で電話番号を抽出したとしたら、それはそれで問題だ。NTTが持っているはずはないし、持っていても提供するとは考えにくいが、民間のデータベースにはあってもおかしくないかも。
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文芸春秋9月号に中曽根(康弘)と、渡辺恒雄の自民党に関する対談が載っていたが、議席が150以下になったら自民党は半永久的に野党になるなどという話が出ている。先日の電話調査の結果が出る前の話だが、それだけ先日の電話調査の結果は衝撃的なのだろうと思う。
なお、同号に猪瀬直樹が民主党の「高速無料化」を批判した文を書いている。民営化に逆行して行政が肥大化するという側面からの内容だが、自分の思いを強くした。
夜明けまえ、彼は目を覚ました。すると暗闇のなか、じつは妻は起きていて、一晩じゅう彼を睨みつけていたのではないかという思いに囚われた。ほんの数分のあいだにもその思いはだんだんと強くなって、抜け出すことが困難なほどに膨れ上がり、仰向けに上を向いたまま彼の首は固まって動かなくなってしまった。
ある男の、青年期の終わりに結婚してから、壮年期の半ばに至るまでの人生のお話。
男の人生は、家族とか妻とか子供とかに密接に絡まっていて、男もそれは自認して依存しているのに、一方では不思議なぐらいそれらの存在が希薄な感じに思える。
その代わり、一見どうでもいいような些細な出来事はやけに記憶の中の位置を占めていて、壮年に至った現在考えてみると、そういうものがつなぎ合わさって今の自分につながっているというという感覚。このあたり、主人公の男が回想をはじめるくらいの年齢にいる自分にとっても共有できるところがあって、リアルだ。
自分の人生って何? 10代とか20代ほど楽観的でもなく、4、50代くらい以降の確固たるものの見方も定まっていない微妙なお年頃特有の悩みというものがある。悩みつつ、日々をこなしているうちに、いつの間にか年をとっていくものだけど。 そのあたり、結婚して、子供ができるとまた思うところがあるのだろう。
おなじ号の文芸春秋に載っていたインタビューで、人生における経過した時間の重みに云々話されているのだけど、時間の経過だけでなく、話の中では家を建てることが象徴的な意味も含めて結構重要な位置を占めてるように思う。
結局、この男は、妻とこれから死に至るまでのそう長くない時間を過ごすことになる終の住処が目の前にあることを知るのだけど、それはやっぱり幸せなことなのだ。娘がいつの間にか留学に行ったことも知らなかったり、この十何年かの家庭の思い出がほとんどなくても。男の人生ってそういうものなの・・・かな!? ちょっと後ろ向きな気もするけど。
(文藝春秋2009年9月号、第141回芥川賞受賞)